他店に負けない安さで真心の手作り提灯 豊岡市の小西淳治商店


今、なぜか家紋が静かなブームを呼んでいます。
故郷を離れ、一世代・二世代と世代を重ね
都会の生活に疲れた人々の自分探しの旅でしょうか?
でも、なぜか成功する人ほど家紋を大切にしている人が多いようですね。

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家紋の由来


どこの家にもある家紋。それは、古くから伝わってきた大切な印。そんな家紋をじっと見ると。その図柄はなかなか変化に富んで面白く、また謎めいています。家紋にはいったい、どのような意味が隠されているのでしょうか。

伝統の十大家紋
沢瀉紋/ 方喰紋/ 柏紋/ 桐紋/ 鷹の羽紋/ 橘紋/ 蔦紋/ 藤紋/ 茗荷紋/ 木瓜紋

植物紋
葵紋/ 麻紋/ 稲紋/ 梅紋/ 楓紋/ 梶紋/ 菊紋/ 桜紋/ 杉紋/ 竹紋/ 茶の実紋/ 丁子紋/ 鉄線紋/ 撫子紋/ 柊紋/ 瓢紋/ 菱紋/ 牡丹紋/ 松紋/ 竜胆紋

動物紋
馬紋/ 鹿角紋/ 烏紋/ 雁紋/ 蝶紋/ 鶴紋/ 鳩紋

自然現象紋
稲妻紋/ 洲浜紋/ 月紋/ 波紋/ 日足紋/ 星紋/ 山紋

建築/器物紋
庵紋/ 石畳紋/ 団扇紋/ 扇紋/ 折敷紋/ 笠紋/ 祇園守紋/ 杏葉紋/ 釘抜紋/ 轡紋/ 車紋/ 銭紋/ 地紙紋/ 千切紋/ 打板紋/ 鳥居紋/ 熨斗紋/ 瓶子紋/ 升紋/ 弓・矢紋/ 輪鼓紋/ 輪宝紋

紋様紋
井筒・井桁紋/ 鱗紋/ 唐花紋/ 亀甲紋/ 蛇の目紋/ 巴紋/ 引両紋/ 卍紋/ 目結紋/ 餅紋/ 輪違い紋


家紋の起源


家紋から自分のルーツ(氏素性)を知るとできます。
伝統を重んじる心からは浅はかな考えは生まれません。



家紋の発生


家紋の発生
家紋の発生は、いまから約900年ほど前の平安時代後期ころにさかのぼれるようです。公家の西園寺家の紋は「巴」だが、実季のときに牛車の紋様として定めたことが古記録に残っている。その牛車の紋様が、所持品、家財道具、その他にも多用されるようになrました。やがて、このしきたりが貴族の間に広まりだし、家紋となっていったといわれています。  この印は、鎌倉時代になると武士の間にもっと実用的な意味で用いられた。戦場にあっては敵味方を識別することは急務である。それで武士はこぞってのぼりや旗に家の印を付け、その存在を明かにさせた。これを「旗紋」といわれます。さらに上級武士は陣幕にもその印を付けた。「幕紋」です。  武家の紋は優美な公家の紋に比べ、戦場ですぐ描け、敵味方にも遠くから見分けがつく実用的な印が多かった。島津氏の「十字」。足利氏の「二つ引両」など簡単なものの方が都合がよかったのでしょう。しかし、江戸時代になると。幕紋、旗紋というのは有名無実に近くなり、ただ家の印をあらわす「家紋」のみが栄えたようです。




五大紋について


五大紋について
 藤・木瓜・酢漿草・鷹の羽・桐が五大紋といわれています。これら五種の紋が多いのは何故でしょう?  藤紋は「藤」の字のつく名字の家で多く用いる。これはひとつに藤原氏の藤にかけたもので、藤原氏の出自(正確ではないが)ということです。そして、この藤の付く名字はたしかに多い。佐藤・加藤・斎藤など大姓がこの紋を用いています。さらに鈴木をはじめ、藤原氏でない家もこの紋をかなり用いています。こうして「藤紋」は広まっていきました。  木瓜はもともと紀氏や日下部氏の代表紋であったが、これらの氏は更正あまり栄えたわけではありません。しかし、紋は広まりました。これは、紋のかたちが大変よいこと、この紋が信仰と子孫繁栄と結び付き、家のルーツにかかわらず、爆発的な人気をよんで広まりました。  酢漿草は、その単純さとハートのかたちの美しさが、古人にとって魅力的であった。仏教では、これを慈悲と知恵と力との三大要素として示した。公家では、大炊御門・冷泉・入江家などが用いたが、大衆の間にもおおいに広まりました。  「鷹の羽」紋はもともと九州の阿蘇神社の神紋である。阿蘇神社は九州鎮撫の神で武威の印が鷹の羽であった。この鷹は「武」「猛」「高」などにも通じ、武家にきわめて人気があり、九州の菊池氏がはじめて用いたが、武家一般にたちまち流行しました。  桐紋はもともと菊とともに天皇家の紋です。しかし、将軍家に下賜され、その将軍家がさらに武将功臣に再下賜され、広まりました。菊紋は規制が厳しかったが、桐紋はそれほどでもなかったので、あこがれの紋として広まったようです。  しかし、これらの紋はいずれも形が美しい、この美的な面も家紋の広まりに必須条件であったと考えられます。




徳川家の三葉葵紋について


徳川家の三葉葵紋について
一般に徳川氏は葵紋であるのが定説化されている。水戸黄門で「頭が高い、この葵の紋どころが目に入らぬか」ってのが有名ですね。しかし、徳川氏の先祖のひとりである三代松平信光の墓には剣銀杏の紋が付けられている。少なくとも信光の時代には、葵紋は定着していなかったようにも考えられます。  葵紋は三河豪族といわれる松平、本多、伊那の諸氏が戦国時代において用いたとされ、家康が征夷大将軍となってから権威ある紋として、一般の仕様を禁止し一門親藩だけに使用を許したようです。




家紋の数と姓氏の数


家紋の数と姓氏の数
姓氏は、現在約14万あるといわれる。これは同一表記で、読み方が二つ以上ある場合で、漢字表記で数えれば約10万ほどとされています。  いっぽう家紋は約一万ほどあるといわれる。この二つを比較すると十家は同じ家紋とうことになります。しかし、これは数のうえでのことで、実際には菱紋や木瓜紋など何百家が使用しています。反面、吾亦紅紋などは柳生家ただ一家が使用しています。  これら紋が広まった理由の一つは、その紋が時代の好みに合ったことにもよりますがが、それ以上に一族が増え、社会的に活躍したことが大きい。ある紋の使用家が多いことは、その紋を使用する家が栄えたことになます。これはまた、紋のパターンが多いという結果にもつながっているといえます。




お地蔵さんとのかかわり


お地蔵さんとのかかわり
関西方面ではお地蔵さんが多く見られ、豊岡市内でも各町内に、お地蔵さんが一体はあります。8月23日になると各地区で子供からお年寄りまで参加して盛大に催しが行われます。 地蔵菩薩は、平安末期〜中世以降の末法思想(仏法の衰退、つまり仏の教えが時代を経て次第に通用しなくなる)の世の中で、衆生を助ける菩薩として信仰され始めました。当時の人々は、粗末な土間のある長屋の暮らしでしたが、流行る疫病や戦乱等で、体力的に弱い子供の死が多く、供養のために長屋ごとに御地蔵さんが祀られるようになり、子供の守護神や、町内安全のための地蔵となってゆきました。今でも〔地蔵さん〕は子どもの守り神として信仰されるようになり、社会の宝の子供を地域全体で見守り、すくすくと育ち、正しき道に導いて下さる佛様と伝えられています。




地蔵盆の由来


地蔵盆の由来
地蔵盆自体の風習は全国的なものだと思いますが、関西地方では8月23日〜24日にかけて、地蔵盆が行われます。元々は地蔵会や地蔵祭と呼ばれていましたが、8月24日の時期が裏盆(盂蘭盆)にあたることから、地蔵盆と呼ばれるようになったと云われています。 地蔵盆は、子供の守り佛としての御地蔵様を、子供たちで供養する法要です。 地蔵盆の行事 御地蔵さんのいる町内では、地蔵像を洗い清め、新しい前垂れに掛け替えて、化粧をさせて飾り付けて綺麗にします。さらに、場所によっては、集会所などの中のひな壇に飾る場合もあります。お地蔵さんの祠や会場の周囲には、地蔵盆独特の赤い提灯が多く飾られます。京都では子供が産まれると、名前を書いた提灯を奉納する風習があります。各町内ごとに、地蔵尊の前に屋台やテントを組み、花・餅・お菓子などの供物を供えます。 会場は、御地蔵さんの前だけとは限らず、歩行者天国として車の通行を規制して盛大に行われている町もあります.地蔵盆が仏教行事としておこなわれるのではなく、宗教性が希薄化して地域全体の風習になっている場合、地域の子どもたちの楽しみであり、親たちが子どもたちの健やかな成長を願う地域住民交流の場とするのであれば、地域お風習の一種ということができると思われます。